僕の職人経営者時代の話です。
まだ、前回を読んでいない方は、番号順で順を追って読んでください。m(_ _)m
前回からの続き、、、
その晩の東京は、今回の旅への収穫の手ごたえを感じながら、早く鹿児島に戻ってフレアという新しい技術にドップリとつかりたかった。
とにかく、クラさんと約束した「鹿児島一のバーテンダーになる!!」
という目標を果たすには、その組織に入って大会に出場して好成績を収める必要があると私は感じた。
九州では、大分県がもっとも盛んで、その実力がどれほどのものなのか?
競技人口はどれくらいいるのか??
などと考えていると、もっと早くに出会っていたかったと焦りまで感じた。
九州では、2年前からフレアがにわかに広まりだして、まだ九州のレベルは低く。
頑張ればそのブランクも埋める事が出来るとアドバイスをもらったのだが。
あんな奇跡の連続の技を習得するには、付け焼刃の練習では到底出来ないだろうと見てとれる。
とにかく早く鹿児島に帰って、フレアバーテンダーとしての一歩を歩みだしたくなった。
そのためには、僕の給料を全てつぎ込んででも、フレア技術向上に努めていこうと固く心に誓った。
出会いで確信
鹿児島に帰って、道具を通信販売で取り寄せ、フレアバーテンディングの組織FBAにネットで入会手続きを済ませ、その入会の旨を、大分の九州ブロックリーダーの人へ連絡を入れた。
その電話で、3ヵ月後に九州大会が大分県で開催されるとのことで、出場しないかと強く出場を求められた。
九州には選手がまだ少なく、ひとりでも多くの選手を出場させたいとのことだった。
僕としても、「もちろん大会は見に行きますが、何もかもが初心者で、技一つ出来ません。 そんな状態で出場しても大会に出場するレベルではありません。」
と断ったが、「皆1年や2年で初心者レベルです、大丈夫ですよ。」
と、またもや、大会出場の催促の返事が返ってきた。
僕も、良く考えると何も目標がなく一人タンタンと練習をするよりも、何か目標があったほうが練習にも身が入るだろうという事で出場することに決めた。
毎日、教則ビデオを見ながら、基本的な技を3時間かかさず毎日練習してみたが、大会の結果は、最下位。
もう、なんでお前みたいなのが、この大会に出て来るんだと言われてもしょうがないという状態で出場をした。
時間はオーバーするし、ミスは多いし、液体はこぼすし、技は少ないしとホント散々な結果・・・。
しかしこの大会に出場できたことは、僕のいい経験になった。
もちろん、鹿児島にはこの競技をやっている仲間がいなく、誰ともこの競技について話せる仲間がいなく、本当に孤独であった。
最初の頃は、よく「そこまでして、カッコつけたいの?」とか「そんな事して、何の意味があるの?」などと言われたり、バカにされたりしたが。
僕はフレアを生でこの目で観て感動したが、そう言われた人たちに、証明できる技術がなくフレアの本質をちゃんと伝えられず、悔しい思いを何度もした。
まだ、鹿児島にフレアの仲間がいなく、孤独に一人で練習していた頃の話である。
そんな中、大分で開催されたフレアの大会で、沢山の仲間に出会った。
同じ価値を共有できる仲間と沢山出会えたのだ。
これはずっと3ヶ月一人で孤独に練習してきた僕にとって大きな収穫だった。
大会では散々な結果ではあったが、下手な僕に皆親切に接してくれて、練習の苦悩話や。
どれくらい日頃練習に打ち込んでいるのかなど話を教えてくれて。
鹿児島では味わえない、沢山の有益な交流が出来た。
懇親会では、一流選手も大会に招待されており、練習の仕方やお酒の知識など沢山の事を、大会に出場できたことで知れた。
鹿児島で一人細々と、練習をしている僕にとって、よき出会いとなり、僕がフレアをやっていることを、この大分県に集まる仲間たちとの交流で、初めて肯定的に認識することが出来た。
人は自分の人生の目的を何度も確かめて肯定し、何度も行動を起こして、自分の中の信念を育てていくものだと思う。
つまり信念は願望達成のための重要なものであり、行動はその信念を育てるものだと思う。
前の営業の話になるが、ちょうどお盆時期にあって、帰省客などの久々の再会があった。
その中に、長崎からの帰省の女性のお客さんが
「私いつもゴミとか落ちていたらひろうの、でもその心の中には、これをひろったら幸せになれるとか、そんな気持ちを持って拾っているところがあるの」
とボソっとつぶやいた。
「僕はずっとフレアをして、分かった事があるんだけど、今、オリンピックとか観て本当に感動するよね??」
「人の心が動かされる時、それって、彼らの競技に数知れない積み重ねた努力を感じるからんだと思うんだ。」
「僕なんかこんな商売して人気商売なところもあるから、なるべく陰徳積むよに心かけてるよ。」
「そんなことってなかなか実証されるものではないけど、必ずその裏には人の心が動かされる何かがあると思ってる。」
「だから、そんな人には行動に現われて、人が惹きつけられるのもだと思ってる。」
「オリンピックの選手が、メダルが欲しい、強くなりたいでいいじゃん。そんな動機でも、何度も挫折を繰り返しながらも、一生懸命努力して本気で頑張ってる人は素晴らしいよ。」
「あなたも、幸せになりたいと思ってする陰徳は素晴らしいよ。 自信を持ってやりなさい。」
と僕は、彼女に告げた。
彼女は帰り際に、ビートニックの紙でできた新品のコースターを貰い。
僕の執筆で「陰徳」と書かせた。
それを大事そうに持って帰ってくれたはずである。
たぶん・・・。
捨ててないよな・・
目に見えないものがいかに大切なものか?
無事大分の九州大会を終え、僕は鹿児島に戻った・・。
成績は、ビリとふがいない成績で終わったが。
大会の結果よりも、この大会で僕が得たものは本当に大きいものとなった。
九州で、フレアの仲間が実在していることや沢山の仲間がいること。
遠く離れた鹿児島で一人、フレアを練習している僕にとって。
その事実を身をもって実感できたことが、僕の大きな励みになった。
そしてこの大会で何よりも得られたこと。
それはこの大会を通して、僕がしなければいけない課題も見えてきた。
僕がクラさんと約束した「鹿児島一のバーテンダーになる!!」
そのためには、九州大会で代表に選ばれることだと、確信したのだ。
懇親会で選手たちと触れ合ってみて分かったことは。
フレア歴長い人でも2年~1年のキャリアの人たちだった・・・。
僕は当時3ヶ月。
そしてその選手たちの、一日の平均練習時間は2時間だという。
僕はこのブランクを埋めるために、毎日4時間の練習をあてることに目標に置いた。
これは2年という開きを縮めるためには、その人たちの二倍の量の時間を練習すれば、きっと追いつくことができると考えたためだ。
それなら、次回の九州大会で、1,2年のブランクを埋める事が出来、上位を狙えるのではないかと考えた。
ビートニックの営業は19時~朝の4時まで、もちろん当時はそれよりも終わるのが遅くなることもよくある。
毎日、営業が終わって、片付けや商品の発注をすませて、寝付く頃は朝の6時くらいだ。
昼12時に起床して、営業準備までの6時までにはなんとか4時間の練習時間を捻出する事は可能なはずである。
もし、出来なくても、休みの日にその足りなかった時間の練習時間を補えば、出来ないことはない。
そして、たまに大分に行って合同練習をして、練習の仕方や技を盗みにいくことにした。
鹿児島から大分は中途半端に遠い。
福岡なら高速で3時間半で着くのだが、大分までは4時間半は優に超える。
でも近くに教えてくれる人もいないので、こればかりはしょうがない。
まだその頃は、一年後にやっと新幹線が走るという九州であった。

こうして僕は、大分の九州大会の後、フレアバーテンディングとしての選手となった。
フレアとは、バーテンダーのスポーツと言われており、駆け出しのスポーツ選手としては、29歳という遅咲きのスポーツ選手となったのである。
フレアの練習はひたすら反復練習を繰り返し、100回やってみて数回出来る技を何万回も繰り返し90%近くできる技に仕上げていくという、気の遠くなる練習方法だ。
なかなか出来ない技は、もう一度、基本の技に立ち戻り、ワンランク落としたその基本の技の精度を深め、そしてまた元の技に挑戦する。
まさに気が遠くなるほどの一歩進んで二歩下がる練習だ。
そのため、動体視力、反射神経、運動神経と、いろいろな要素が必要で、若い選手のほうが有利に働きやすい。
当時の僕は、もうすぐ30代にさしかかろうとしていた。
フレアの選手としては、あまり時間が許されていなかった。

とにかく、何も考えずに練習にまい進するしかなかった。
この間の九州大会で、半年後に同じ大分で小さな大会があると聞いたので、練習の目標として、その大会での入賞を目指すことにした。
毎日、12時ころに起床して、目が覚めるまでフレアの教則ビデオや有名選手の技を目に焼き付け。
公園にいって5時ごろまで練習していた。
雨が降った時は、基本練習やフレアのビデオ鑑賞をするという生活を送っていた。
テレビも見ない、ネットもしない。
まさに浮世離れした生活で、お店のお客さんに最近の事などを教えてもらうというそんな生活を毎日送っていた。
その時の僕は、鹿児島で誰も共感してくれる仲間もいなく本当に孤独だった。
がしかし、クラさんとの「鹿児島一のバーテンダーになる!!」という約束だけが、その頃の僕を支えてくれた。

ある日、一人の常連さんが旅から帰ってきて報告に来てくれた。
彼は毎年夏に登山を楽しみに、日本アルプスが集まる長野に旅をしているお客さんだ。
彼は32歳、見た目は20代前半と若く、実際の年齢を聞くと「ええっ」と思うほどだ。
彼はオタクで、偏った会話ばかりするので、万人となかなか打ち解けにくい少し変わった子だ。
しかし、彼は常に人の事を考え人の為に役に立つ事を喜びと感じる心優しい人間である。
確かに少し変わった人だと、最初の認識は誰もが受けると思うが、付き合ってみると誰にも危害を与えないし、人に対して彼は常に真っ直ぐに付き合う素晴らしい人間だ。
その彼が最初に長野に行くキッカケとなったのは、大好きなアニメの舞台が長野県だった。
それが毎年夏に長野に行くキッカケとなったらしい。
その時で4回目になる長野の旅は、いつも決まって泊まる民宿は、山のふもとにある過疎化が進んだ小さな町らしい。
4回目となると近所の住民数人と顔見知りになっていて、バスの運転手さんさえ、「毎年来てる子だよね?」
と声をかけてくるらしい。
そう嬉しそうに話をする彼は、信州のそばの美味しい話や、ふきのとうの味噌漬けの美味しさなどの土産話を僕らに教えてくれた。
長野の旅の前には、決まって泊まるその民宿に、沢山の鹿児島の焼酎を送って、お世話になった人たちにあげたり。
登山中は出会った数十のほこらに感謝と無事下山できるようにと祈願をし、焼酎をおそなえしに行くそうだ。
彼のその行為は、話を聞いていてどこかカルマ的にその行為に行き着いてしまうように感じた僕は。
「なんで、そんなに一生懸命できるの??」
と彼に尋ねてみた。
「自分へのつぐないです。僕が母のおなかに出来た時、周りから反対されて生まれたみたいなんです。 それをずっと心のなかで引きずっていて、山岳信仰的に長野に登山すると心がスーとするんです。」
旅から帰ってきたばかりの彼は一段とテンション高く、何もかもに解き放たれ、ビールを飲みながら僕らに喋っている彼の顔は、爽やかな笑顔に満ち溢れていた。
今年が最後と決めて行った長野だったが、やはり来年も行く事となったと。
彼は嬉しそうに話していた。
そして今回の旅で5年後にはその小さな長野の町に移住する事を考え出したとも話してくれた。
その長野の素朴な人たちとの触れ合いの中で、そんな感情が芽生えてきたそうだ。
「年寄りが多いその地域に、移り住んで手伝いが出来て、少しでも何かのカンフル剤として、役立ちたい。」
と遠くを見つめ僕らに話してくれた。
いつもいつも、カウンターの向こう側には、僕の知らない新しい気付きを与えてくれる場所だった。
みんなそれぞれに違った目的が人生にあると思う。
それは人の数だけ、違った考えや人生があるように。
人生の目的の大切さ

ある5年前の晩にローカルの外人2人が開店して間もなく誰も未だ居ないカウンターにやってきた。


バカになれるやつは、バカになれないやつより偉い

僕の目的は与えることと残すこと。
そしてクラさんから与えてもらった残してもらったこと。
それが、、、
「鹿児島一のバーテンダーになる!!」

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