②新しい旅立ちのすすめ(職人経営者時代)

前回をお読みでない方は、最初のページをお読みください。m(__)m

①出会いは成長 (職人経営者時代)

ある日、いつものように親身になって僕に教えてくれるクラさんに、やはり何か返してあげたいという気持ちがこみ上げてきた。

そして思わず、クラさんに言った・・。

そして思わず僕の口から出た言葉は・・・。

「クラさん、俺、何でもいいから鹿児島一のバーテンダーになります!!」

だった・・・。

僕は、自分で何てこと言ってしまったんだろうと思ったが、そんなことより。

そのように言わなければ、今の自分の気持ちのままでは、それ以上に収まりがつかなかったのである・・・。

これだけたくさんのことを与えてもらった僕の感謝の気持ちから。

当時の僕にとってクラさんに返せる、これが唯一僕にとっての最大の言葉だったと思う・・・。

僕がその言葉をクラさんに返した時、クラさんは本当に嬉しそうな笑顔を浮かべ、コクっとうなずくと。

「うん、期待してるよ、その日が来るのを楽しみにしているよ。」

 

と返してくれた・・。

「はい!!」

と僕も続けて返した・・。

クラさんは本当に嬉しそうだった・・。

あの時、僕がクラさんと出会って一番の笑顔だったと思う。

クラさんは本当に僕たちに、母親が子供に見返りを求めない愛情を注ぐような「無私の愛」で接してくれていた・・・。

新たな旅のスタイルへの模索

僕はクラさんがお店を後にした後、さっきの私がクラさんに言ってしまった言葉を思い出して、本当に後悔した・・。

[しまった・・なんて事を、クラさんと約束してしまったんだろう・・。]

今更ながら、自分の口から出た言葉が、とてつもなく大きい事であることに気付いてきた・・・。

どんどんとその言った言葉が、まるで空気の入っていく風船がシュッシュッと大きく膨らむような重大さを感じた・・。

それから、私は「鹿児島一のバーテンダーとはなんぞや」という言葉を摸索し始めた・・・。

「鹿児島一のバーテンダー」・・。

今の私が出来る一番とはなんだろう??

[お客さんを一番お店に呼べる事なのか??]

[一度バーテンダー協会みたいな組織に入って、大会を目指して一番を狙うことなのか?]

当時の私は、蝶ネクタイをしてかしこまる自分が嫌だった。

それは自分らしくないと思っていたし、なんとかして避けたい・・・。

などと考えながら摸索する旅が始まったのだ・・。

クラさんに僕はああ言ったものの、やはり明確な答えは出なかった・・

とりあえず、本屋さんから数冊ほどのカクテルやお酒、有名バーテンダーがいるバーの書物を買ってきて、新たな勉強を再開した・・・。

そうすれば、これからのクラさんとの会話にも理解が深まるだろうし、なんとかやってますってことが分かってもらえるだろう。

そして一番の問題である・・。

どうやって「鹿児島一のバーテンダー」になれるかの摸索を、少しでも答えを探すことと。

少しでも早くレベルを向上させなければと思ったからである・・・。

クラさんとする会話にも少しついていけるように、お酒の知識を少しずつではあるが蓄えていったのである・・。

クラさんもなんとなく、僕が少しずつ変わっていく様子をどこか楽しむように相変わらず嬉しそうに来店していただいた・・。

でも、鹿児島一のバーテンダーになることが、クラさんへの恩返しになると分かっていても。

なかなか解決策が見つからない・・。

カクテルの大会で優勝を目指すには、バーテンダー協会に在籍して大会出場を果たさなければならないし・・・。

当時の僕は、バーテンダー協会はどこか堅苦しくて、抵抗を持っていた。

鹿児島一お客さんを呼ぶバーテンダーを目指しても評価が曖昧で。


それはお客さんが評価するもので
あって、実質の功績はどこか曖昧で、なんとも評価が付けがたい・・。

ならば、お酒やカクテルの知識などなら、とりあえず出来るのではないかと、お酒の書物を買っては勉強を続けた・・。

始まりはいつも自分の中にあった

突然だが、ここで僕がこの飲食という業界に入った経歴をお話したいと思う。

人が変わる3つの出来事があると言う。

1つ目が、大失恋をする

2つ目が、投獄される

3つ目が、九死に一生を得る(大病をわずらう)

これが人を一変にして変えてしまう3つの出来事だそうだ・・

僕も喧嘩をして内臓破裂で急膵炎になり、医者に明日死ぬかも知れないと言われたことがある。

実はこの経験が、後に僕が飲食という業界に入るきっかけとなった。

膵頭部と膵中部と膵尾部という部分がグチャグチャになっていて、消化液が他の臓器を溶かしくっつけ合って、手の施しようがない状態だったそうだ。

毎日、麻酔から目が覚めると、ああ今日も生きていてよかった・・

もう悪いことはしません、僕は生まれ変わります。

だから神様、もし助かるとしたら、人の役に立つような人間に生まれ変わります。

だから2度めの人生をください。

って毎日唱えてた。

そして誰も手がつけられない医者から見放された状態の中。

アメリカ帰りの一人のお医者さんが僕に手術をしてくれ、僕は命を食い止めることができ、奇跡的に助かった。

そして今でもその手術は、論文としてネット上にUPされているそうだ。

その頃の僕は半年間何も食べれなく、ずっと点滴をつないだままの入院生活だったが。

その半年間の入院生活の中で、1つの使命を得たことがある。

その怪我のきっかけは、先輩から続く暴走族の抗争で、暇があれば喧嘩ばかりをしていた。

その時は不思議と死ぬことなんて怖くないって思っていた。

そんな過去の自分を振り返り、不思議に思った。

それはそんな僕が、いざ明日死ぬって言われて、正直、本当に怖くなったことだ。

自分が当然だと思うこの世の中に、僕という存在がいなくなるってことが、本当に怖かった・・

「俺、悪いことばかりやっていて、何もいいこと、世の中にやってないじゃん・・」

そのまま死ぬのは、絶対イヤだ。

こう思えて、死ぬにも死にきれなかった・・

そして半年間考えてみた。

そしたら答えが出た。

それが・・・

「地位」、「名誉」、「金」なんて、あの世に持っていけないなって・・







じゃあ人生で大事なものってなんだろうって。

そしたら、「与えること」と「残すこと」が大事だって分かった。

もしこの世の中に自分という物体がいなくなったとしても。

僕がこの人生で与えたものと残したものって、なにか僕の生きた証になるんじゃないかなって思えた。

なんか志とか想いとか世の中に与えることと残すことができれば、後世にチョットでも生きた証が残るんじゃないかなって思えた。

この世に名を残した偉人たちも、その最たる例なんじゃないかなって。

たとえば男だったら、仕事や文化かなって思った。

じゃあ女性はと考えてみると。

やはり、色々あるけど一番は、子供かなって思った。

だって母親という存在は子供にとって特別な存在で、母親として、たくさん与えることと残すことができると思う。

でも今の世の中、資本主義社会だから、綺麗ごとだけを言ってはいられない。

やはり生きるために、お金を稼がないといけない。

だからお金を稼げば、より多くの物を与えることができるし、残すことだって可能だ。

だからお金を稼ぐことや地位や名誉を持つことを、別に否定しているわけじゃない。

ただ社会や人と触れ合うために本質的なことの大切さは。

別に損得の関係だけじゃなくて、与えることと残すことが大事なんじゃないかなと思う。

それはビジネスも一緒だと思う。

ただ僕がそう思う、ただそれだけ・・

そしてその使命を持って退院してから。

その新たにできた僕の使命感、与え残すことができるものはなにか?

これが僕の人生テーマとなった。

だから僕はこのブログを書く動機ともなっている。

そして勉強ができない今の自分に与える、残すことができること、それが飲食だと思った。

それは半年間食べれない生活を送った僕は、朝から晩まで一日中、料理番組を穴が空くんじゃないかと思うほど観まくっていた。

まだ一生食べることができないかも知れないと、自覚できなかった頃は。

食べ物を見るのも、匂いや会話さえ、食に触れるのがいやだったが。

2ヶ月くらいたった頃から、どうせ食べれないのなら、見るだけでも食べ物に触れていたいと。

その当時、朝は「郁恵・井森のお料理BAN!BAN!」、「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」、「キューピー3分クッキング」「ゴールデンタイムの料理特番」、「どっちの料理ショー」と深夜までずっと。

飽きることなく料理番組を観ていた。

入院期間は時間があったので、北大路魯山人や池波正太郎などの、日本を代表する美食家の本も読み漁り。

いつかこのように食に触れ合ってみたいものだと、食べることの欲求が究極に育まれていった。

このように何かを見つけては、食に関することに触れていた。

とうぜん強烈に食べることの欲求が沸いた僕に、何かできるかもってそう思えたのが、飲食に入ったきっかけだった。

もしかしたらこの僕の経験が、飲食を通して、人に与えることと残すことが微力ながらできるんじゃないかってそう思えた。

どんな職業でも言えるのだが、こと飲食の例でたえると。
一流の料理人や一流のバーテンダーになるなら、まず家庭で美味しいと言われている味の固定概念を壊すことから始まる。
それはプロとして本当に美味しいとされているものの味を一つひとつ覚えて、その経験を増やして。
自分の中の引き出しを増やしていくことから始まる。
お客さんに舌が負けていては、美味しいものを提供することはできないからだ。
だからプロとして本モノのに触れる時間と投資をやり続けなければならない。
それが仕事のセンスや経験、専門知識があなたの哲学となって、知恵となる。
その結晶が、あなたのビジネスに影響すると思う。
とうぜん、僕がやっていたビートニックもそうだった。
いつも始まりは自分の中にあった。
さて長々と僕の生い立ちを話したが、クラさんとの思い出に話を戻そう。
 
 
 

新たな旅のすゝめのダメ押し

 
 
 

僕はクラさんと出会ってからというもの。

お酒やカクテル、食に対しての勉強を続ける日々を続けた。

そんなある日の事である。

毎週火曜日の僕の休日が明け、1日ぶりのお店の営業が始まると。

オープンしてすぐに、ある一人の女性が入ってきた・・。

その女性は、僕が仲良くさせてもらっている、幼馴染が経営するスナックのホステスだった・・。

その女性はいつものホステスの装いとは違って、黒の礼服をまとって首にはパールのネックレスを飾っていた。

ちょうどホステスさんの出勤時間ではあったが、出勤前の1杯を飲みにきた様子ではない。

彼女は、僕の顔を見るとホットした様子で席に着いた。

彼女はすぐにジントニックを頼み、何気ない会話を始めて30分くらい経った頃。

「昨日は休みだったんだね?」

と僕に尋ねてきた。

「ごめん、昨日は休みだったよ、もしかして昨日来てくれたの?」

「そう昨日、クラさんと一緒にココに来たんだよ。」

彼女はたまにクラさんに連れられ、よくここに来ているお客さんでもあった・・・。

クラさんも彼女のことをすごくかわいがっていた様子だった。

そんな彼女は話をすすめた。

「でもクラさん、本当に残念だったね??」

「っえ?何が??」

「うそっ?? 新町さんあんなに仲良かったのに知らないの??」

「っえ?クラさんに何かあったの??」

「私、昨日の夜クラさんとココに来たんだけど、新町さん休みだったでしょ?」

「うん」

「ここでクラさんと一緒に飲んで、帰ったんだけど、私と別れた後、家で首を吊って自殺したんだよ。」

もう、ショックのあまり僕の頭は真っ白になった・・。

彼女は、クラさんのお通夜の帰りで家に帰る前に、どうしても僕と会話がしたくて。

ここへ寄ったのだという。

しばらく、クラさんに献杯をを捧げながら、クラさんの事を聞いたが。

頭が真っ白になったせいもあって、あまり深くは憶えていない・・・。

確か、こんな内容だったと思う。

クラさんがウォーターメロンを経営している時は、森本ビルにあった。

そのビルはクラさんの親の持ちビルであった。

そのビルをクラさんが譲り受け、ついでにバーを経営していたそうだ。

クラさんは独り身で、そのビルの3階に住んでいた、4階にはお母さんお父さんの仏壇が飾ってあったと思う。

そんな生活の中、県外に住むお兄さんが突然鹿児島に帰ってきて。

その森本ビルはお兄さん家族に乗っ取られて、お店をたたんだらしい・・。

その後は、クラさんは家を追い出され、独りで暮しをしながら釣りに行く生活を送っていたらしい・・・。

そんな話を彼女から聞かされたと思う。

クラさんは自殺だったこともあり、お通夜しか家族以外行けないと聞いたが。

僕は営業中にクラさんのお通夜へと向かった。

 
 

僕は急いでタクシーを捕まえると、すぐにクラさんの元へと向かった。

お通夜へと向かう途中、走馬灯のようにクラさんの事が思い出された。

クラさんとの思い出はどれも温かく素晴らしい思い出だ。

でも、ちゃんとクラさんに会ってみないと、死んだことなんて本当に信じられなかった。

いつも僕らと接している時のクラさんはとても前向きだったし、自ら命を絶つなんて考えることがとても出来なかったからだ・・。

僕はお通夜の会場につくと、お兄さん家族らしき方に挨拶をかわして、クラさんのいる場所へと向かった。

僕の心境とは裏腹に、何事もなかったように無責任に横たわるクラさんの姿があった。

僕は、今までのことをクラさんに深く感謝を告げ。

あの時の二人だけの約束「鹿児島で一番のバーテンダーになる!!」ことを固く固く誓った・・・。

そして斎場を出て、お店に戻るタクシーの中で、何度も何度もその約束を自分自身に誓った。

やっと僕はの頭は、クラさんの死を自覚してきた。

思い起こせば、参列者の少ない、会場でひっそりと行われていたお通夜は。

誰もが息を殺して参列している、本当に静かな式であったのを憶えている。

そんな会場に、僕は言葉を一言二言、親族に声をかけ、挨拶を軽くかわすと、会場をあとにしたんだと、なんとなく思い出してきた。

独り会場を後にして、僕の心の支えを失った大事な人へとの別れの悲しみに包まれ、トボトボと仕事に帰っている最中に。

なぜあそこまで、こんな私の事を気にかけてくれ、色んなことを私に教えてくれていたのかがやっと分かってきた・・・。

彼は、僕との始めての出会いから、僕に何かを託したかったのだ・・・。

それは精神論であり、経営論であり、人生論であり生きている全てだ・・・。

先程の話に戻るが、医者に明日死ぬかもしれないと言われた経験がある・・・。

僕はその時うまれて始めて、自分にとって死というものを認識させられた経験だった。

その時の自分は、自分が良ければ何をやったっていいという考えしかなかった・・・。

そんな人生を、死を意識して初めて自分のおろかさに気づかされるのである・・・。

本当にあした死ぬとなった時、自分は、社会のために何をしたのか?

なにも社会に貢献できていない自分が情けなくそんな人生だけで死んでいくのが本当に怖かった。

たまたまこうして僕は命を、もう一度授かったが。

2度目の人生は心を改めて何か社会にとって貢献できる人間になると、神との約束で二度目の人生をもらった・・。

その神との約束は、僕の人生の使命を感じたときである。

「地位、名誉、金よりも、もっと大切なものは与える、残す事!!」

「地位や名誉や金を持ってもあの世に持っていくことも出来ない。でも残す、与える事って、もし自分の体がこの世からなくなったとしても、残す事、与える事ができれば、私の志や存在した証は形をかえども、次世代へと残ってゆく。」

男性にあっては、仕事で社会に貢献したり、弟子や後輩に残し与える事で、社会に脈々とつながり残っていくであろう・・。

そしていくらそんな恩恵を受けながらも。

所詮、下のものは、どんなに頑張ろうとも、上のものに満足に恩を返すこともできない。

それは子供が親に対して、親から受けた恩恵を満足に恩を返せないのと似ているかも知れない。

そしてその子供が親になってやっと、親から受けた恩恵を、親子またいで、自分の子供に与えることや残すことができる。

それは人から人へと大事なものを子々孫々と受け継ぐための、尊い法則なのかも知れない。

女性にあってはこの与えること残すことにとって、何が一番かと考えると。

やはり子供ではないかと考える。

女性は次の世代として子を残し、教育や愛情を与えてずっと残す与えるが出来るのではないかと思っている。

なぜこんな話をぶり返したかとしたかというと。

きっとクラさんも、僕と初めて会った時、どこかで死を意識しながら生きていたんじゃないのかと思う・・・。

だからこんな誰かもわからない僕に、特別を感じるほどに、残し与えてもらえたのではないかと、推測できる…。

ただ死人に口なし、誰も答えは分からない。

あくまでも僕の勝手な解釈だが。

でもそう考えると、クラさんの行動のすべてが納得がいく。

だから僕の心に響いたし、今でもクラさんの意志や教えが僕の中にずっと生きている・・・。

これまで僕がビートニックを18年続ける事が出来たのも、クラさんとの出会いがあったからだと思う。

こうして、だんだんとおぼろげながら、その時の僕は感じていったのである。

そういうことを、後々になって感じていくにつれ。

ますます、クラさんは僕にとって偉大な存在になっていったし。

彼の最後の人生はまぎれもなく、熱烈な僕の応援団長であった。

僕はクラさんが去った後、数日は何もやる気も起きず、まさか自ら命を絶つなんて想像もつかなかったし。

なぜ気づけなかったんだろうと、自分を責める時間が僕を無気力にさせていた・・・。

答を模索する旅が始まった

僕はクラさんが、この世を後に去っていった事が本当に悲しかった。

ずっと長く、クラさんの心地良い大きな優しさに甘えていたかった…。
何もしたくないという、無気力な時間が、悲しみと共に僕に襲いかかっていた…。
それでも僕に時折、喫緊に迫る課題のあの言葉が私に降りかかって来るのだ。
それが「鹿児島一のバーテンダーになる」というあの言葉だった…。
クラさんに感謝を示すこととは、その約束をやり遂げるしかなかった。
「鹿児島一のバーテンダーになる」
僕とクラさんが共に共有した時間を大切に出来ることは、この約束を守るしかなかったのだ…。
僕は、クラさんが死んで一週間が経った頃、このままじゃダメだと気持ちを奮いたたせ、何かの参考になればと、書店に向かった…。
普段なら、お酒の本などを買うのだが。
有名なバーテンダーのいるお店の本や、最近のオススメなバーについて書かれている本を数冊買ってきた。
自分の今の状況を少しでも変えられる事ができればと、その数冊を熟読していった…。
なんとなく今思い返せば、指南書というか、哲学的なものを探していたのかも知れない。
クラさんが居なくなってしまった今となっては、自分が考え、道を模索して追及して行くしかなくなったのだ。

今までは、クラさんと一緒に道を模索して、すべてに手を差し伸べ、僕が二人三脚で進む、そんな居心地のいい世界だったが。

それを急に突き放されて、先行き不透明で戸惑っている僕に。

まるでクラさんが、「教えることは教えた、応援もした、後は新町君が自分で探して行きなさい、君ならできる、頑張ってね!!」と言われているようだった。

それから僕は、「鹿児島一のバーテンダー」になるクラさんとの約束を果たすために、道を模索するための旅が始まったのだ・・・。

僕はどうやったらクラさんとの約束である。

「鹿児島一のバーテンダーになる!!」

この約束が僕にとって、とてつもなく大きなものに感じていた・・

この約束を叶えることが出来るかに、正直焦りがでてきた・・・

その時の自分は無気力な状態ではあったが、前に進んでいかなければ。

到底、鹿児島一のバーテンダーになることは出来ないはずだと、強く感じて焦っていたからだ。

こうして足踏みしていても、ほかの人にドンドン先を越されれていくし。

とにかく今の僕は、先を見てもがき続けるしかなかったのだ。

そうしているうちに、答えは意外にもすぐに見つかったのである。

数冊買った本の中に、確か「有名バーテンダーのいる今時のバー」的な本を読んだ。

その本は、短編小説のように、短編で一人の有名バーテンダーを取り上げ、優れた特性を紹介しつつ、そのお店を紹介していくそんな本だった。

鹿児島一のバーテンダーになるために、色々な角度から見つめ直し、バーやバーテンダーを改めて模索する必要があると思っていたため、そのような本に興味を惹かれたのだろう。

どこかそうやっていれば、答の数が増えるというか、答の選択肢が増えそうな気がした。

その本の中に、「フレア」という聞きなれない言葉が出てきた。

しかも、その本には名物バーテンダーがいるバーとして8軒ほどのお店が紹介されているのだが。

そのバーテンダーの作る○○に魅了されたなどと書いてあるのだが。

その短編ストーリーの中の2軒のお店が、「フレア」という少し聞き慣れない言葉とともに、最新のバースキルのスタイルとして紹介されていたのだ。

僕はその本を読み終わると、そのフレアについて書かれている、2軒のお店紹介を何度も読み返してみた。

その本の紹介では、フレアとはトムクルーズ主演の「映画  カクテル」と同じようにボトルを宙に投げたり回したりしてつくるスキルのことらしい。

そのスキルはほとんど、感覚で作るバーテンダーの技術のことを言うようだった。

僕がこの飲食店という業界に入ったバーは、「バナナムーン」というバーだった。

そのマスターに惚れ込んで、弟子入りしたのだが。

その師匠から、初日に紹介された映画が、「映画 カクテル」だったので、一応そのバーテンダースタイルを知ってはいたが、正直。

格段、感銘を受けた映画ではなかった。

その本の説明を読むまでは、その映画の技法が、フレアということや。

実際そんなバーテンダーが本当に存在していることを、まったくをもって知らなかった。

当時の僕は、ただあのスタイルは映画の世界だけだと思っていたのだ。あの映画を当時観ている人なら多分わかると思うが。

どうにも浮世離れした世界なのだ。

鹿児島でも少しマネして作っている光景は見た事があったが、それが集客できるほどの技術にも思えなかったし。

その時、確かにすごいし、カッコいいとは思ったが。

それがどれほどの価値があるのかさえも、当時の私には分からなかった。

でも今回は本を読んでみて、実際それをまじかに感じてみたかった。

もしかしたら、クラさんとの約束「鹿児島一のバーテンダーになる」が現実になるかもしれないと。

この「フレア」という言葉に、なぜか不思議な期待性を感じたからだ・・。

ともに成長していきましょう。

応援しています。

新町